チューリップ

チューリップ

小简介 1970年結成、1989年一時解散。1997年に再結成。ロックでもフォークでもない新しい音楽分野「ニューミュージック(Jポップスの草分け)」を開拓したバンドのひとつ。 当時はかぐや姫、海援隊、甲斐バンドなど多くのアーティストが九州から誕生しミュージックシーンをにぎわせたが、チューリップも博多出身のバンドだった。 ビートルズに影響を受け、リーダー財津和夫は和製ポール・マッカートニーを自認、メロディアスでポップな作品を多数、世に出した。また、メンバー全員が作詞・作曲・ボーカルを担当していることも特徴で、この方針は伝統的に続けている。 大事件 1970年(1969年説あり)、財津が中心となって西南学院大学在学中に吉田彰、宗田慎二、末広信幸と共に 福岡市で結成。 この時期に、オムニバスに数枚参加したりシングルを数枚出している(財津は1995年にNHKの企画でこの時期のメンバー数人と再会し、当時の名曲「柱時計が10時半」を共に演奏している)。後、メンバーの宗田慎二と末広信幸は、東京でブレークする前に脱退。 何度かメンバーが入れ替わるも、海援隊から上田雅利を引き抜いたのを最後に、5人のメンバー財津(ボーカル、ギター、キーボード)、姫野達也(ボーカル、ギター、キーボード)、安部俊幸(ギター)(安部を引き抜きにきた現場で『私の小さな人生』が書き下ろされたことを、後に安部自身が述べている)、上田雅利(ドラムス)、吉田彰(ベース)で本格的に活動を開始する。 1972年、上京。当時の所属事務所シンコー・ミュージック初の専属アーティストとして東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)から『魔法の黄色い靴』でメジャーデビュー。財津の、日本語を西洋メロディに乗せるセンスには優れたものがあり、業界では高評価を得る[要出典]ものの一般にはヒットしなかったが、『日本語によるロックの実現』という歴史的な評価は同時期のはっぴいえんど(『風街ろまん』(1971年)他)などと並ぶ[要出典](ちなみに、チューリップ初の非オリジナルは『夏色のおもいで』の作詞:松本隆で、これは松本隆の職業作詞のデビュー作)。翌1973年に出した3枚目のシングル『心の旅』が5ヶ月かけてレコード売り上げ1位を記録し、一躍有名となる。その後も『青春の影』(1974年)、『サボテンの花』(1975年)、『虹とスニーカーの頃』(1979年)など数々の名曲を輩出。その名を不動のものとする。第1期の特徴は『風のメロディ』(1976年)など財津と姫野のツインボーカル楽曲を用意していた点である。 ライブを中心に活動したチューリップは、この時期、その後の日本ミュージックシーンに先駆ける活動を行う。日本初の単独野外ライブや、単独コロシアム・ライブ(1978年)、遊園地を借り切っての野外ライブ(1982年よみうりランド)その他、大規模なステージセットやライティング革命など、日本での先進的なライブ・セットでの先駆者的役割は計り知れない[要出典]。 1980年、上田、吉田が相次いで脱退。新たに宮城伸一郎 (b)、伊藤薫 (ds) を迎え、チューリップ第2期に入るが、さらに1985年、姫野、安部、伊藤が『涙のパーティ』のリリースを最後に脱退しオールウェイズを結成、オリジナルメンバーは財津を残すだけとなった。 1989年、アルバム『Well』を最後に一旦解散。財津和夫は本格的にソロ活動に入る。 1997年に再結成以降(財津、姫野、安部、上田、宮城)ライヴ活動を展開し往年のファンを動員している。以後10年の間に4度の再結成を行う。 2007年、全国ツアーの日程と同時に、「再結成は今回で最後」と足掛け35年に及ぶバンド活動に再び幕を下ろすと発表された。5月30日に18年ぶりのオリジナルアルバム『run』発売。「紅白でバンド活動に終止符を」と第58回NHK紅白歌合戦でファイナルとなることが示唆されていたが、NHKとの交渉が決裂し[要出典]、出場を辞退した。そのためかどうかは不明だが、翌年2008年の第59回NHK紅白歌合戦のオープニング・ナンバーとして、財津作詞・作曲の『切手のないおくりもの』が採用された。

  • 最新歌曲
  • 最新视频
  • 最新专辑
  • 没有数据了...